2010年 アメリカ
ディーンは幼い頃に両親が離婚し、貧しいながらも音楽の才能に恵まれた父の元で育ち、高校は出ずにフリーターをしていた。
シンディは両親の夫婦関係は破綻していたものの中流家庭で不自由なく育ち、医師になることを夢見る高校生だった。
仕事先でたまたま会ったシンディに一目惚れしたディーンが、彼女を探し出して口説いたのが馴れ初めだった。その頃シンディは同級生のボビーという男子生徒と付き合っていたが、彼の不用意なセックスによって妊娠してしまった。どうしても中絶することができずに途方に暮れるシンディにディーンがプロポーズした。不安に駆られていたシンディはディーンの言葉に頷き、知り合って間もないうちに2人は夫婦となった。
それから数年後、フランキーと名付けたシンディの娘は元気に育っていた。シンディは医師になる夢を諦め看護師として働いていた。ディーンは仕事も長続きせずその日暮らしだった。彼は妻子を大切に思っていたし、今の生活に満足し、他に何も望まなかった。しかしシンディは向上心がなく不満や文句ばかり言っている彼から心が離れつつあった。
関係修復のためにディーンはモーテルで2人きりで愛し合おうとシンディを誘った。シンディは乗り気ではなかったが、渋々応じた。しかしモーテルにいったところで状況が良くなるはずがなかった。冷め切ったシンディの態度に最後はディーンが激怒してしまい、気まずいまま一夜を過ごす羽目になってしまった。
翌朝、勤務先から呼び出されたシンディは、まだ眠っているディーンを置いて独りモーテルを出た。そして仕事をしていると、そこに酒に酔ったディーンがやってきて「なぜ一人でいなくなった」と暴れ始めた。そんなディーンにシンディはついに「もうこれっぽちも愛していない」と叫んだ。
最後の話し合いのとき、2人の中に蘇っていたのはかつての幸せな日々だった。2人の関係の結末は……。
思い描く幸せのかたちは人によって様々です。結婚や恋愛というのは、お互いが心に抱いているそれを重ね合わせる行為です。同じ大きさで違うかたちであれば当然ぶつかり合って壊れてしまいます。大きさが違えばかたちがどうであれ大きい方に小さい方が収まり問題なさそうですが、あまりに差があると大きな幸せを抱く側は物足りなく感じてしまいます。この作品の夫婦が抱えていた問題はこのパターンでした。ディーンにとっての幸せは身の丈ほどのささやかなものでしたが、元々上昇志向が強いシンディにとってはそれはあまりにも卑小に思えて仕方がなかったのです。
人は誰しも幸せを追求します。それは本能です。独りのうちは自分の思うがままに追求していればよいでしょうが、結婚や恋愛で2人で追求するようになればそうはいかなくなります。厄介なことに、相手が思い描いている幸せのかたちや大きさは目に見えるものではないし、その輪郭がぼんやりと見えてきたときには大抵後戻りできなくなっているものです。
結婚も恋愛もうまくいかないことは多々あります。どちらにも落ち度がなくても。だから悔やんでも仕方がありません。そう思いつつも切なく深い悲しみに打ちひしがれてしまうのものですが。
本作は、現在と過去のシーンが交互に描かれます。その構成が2人の関係の悪い時と良い時の落差を一層際立たせ鑑賞者をセンチメンタルな気持ちにさせます。そしてラストシーンもまた印象的です。
夫婦関係や恋人関係に思い悩んでいる方は、本作を鑑賞した後に自分の胸に手を当ててよく考えてみてください。なかなか直視しがたいでしょうが、シンディと同じ気持ちならば”別れ”のときが来ているということなのかも知れません。
ところで、題名の「Blue Valentine」。私はTom Waitsを連想してしまいました。歌詞の意味は違うけれど、この映画に合う雰囲気の楽曲です。(ちなみにこの曲が収録されている同名のアルバムには良い曲が多く収録されているので、お勧めします。)
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