2015年 イタリア
フィリピンの都市サンカルロス。父を知らず、母に捨てられた孤児のブランカは、ストリートチルドレンとして逞しく生きていた。ある日、街頭テレビで裕福な女性が何人もの孤児を養子として引き取っているという番組を観たブランカは、たまたま隣りにいた男にいくら払えば母親を“買える“のか尋ねた。男は「3万ドルくらい払えば(娼婦として)“買える“だろう」と答えた。それを聞いたブランカは、それまでスリなどで貯めた金で母親を買おうと決心した。
住処に帰ると、ダンボールハウスはブランカに恨みを持つ孤児達に無惨に破壊されていた。寝床を失ったブランカが街を彷徨っていると、盲目の老人ピーターが路上で奏でるエレアコギターの音色が耳に入ってきた。最初はピーターのチップをくすねようと近づいたブランカだったが、彼の優しさに触れて親しみを感じ、行動を共にするようになった。
公園でピーターの演奏にあわせて歌っていると通りがかりのバーのオーナーに見染められ、店のステージに立つことになった。ピーターの伴奏とブランカの歌は好評で店は繁盛した。オーナーに気に入られた2人は店の部屋を与えられた。久しぶりにちゃんとした住処で眠ることができブランカは幸せだった。
しかし、幸せは長くは続かなかった。ブランカ達に与えられた部屋に元々住んでいたバーの下男が2人を恨み、ブランカが店の金を着服したように細工したのだ。その悪巧みでオーナーの逆鱗に触れた2人は店を追い出された。
再び住処を失ったブランカは、ピーターとも仲違いし別れてしまった。そして偶然会った2人組の孤児ラウルとセバスチャンに誘われるがまま、再びスリや置き引きに明け暮れる日々に戻った。しかしブランカはピーターと会う前の彼女とは同じではなかった。やがてピーターのことが心配になったブランカは、一緒に過ごした公園に戻ったが彼の姿はなかった。そこへ見知らぬ中年女が「ピーターがどこにいるか知っている」と声をかけてきた。彼女は甘い言葉でブランカを騙し売春宿に売ろうとしていたのだった。すんでのところで脱出したブランカは、ようやく自分を探し歩いていたピーターと再会することができた。恐ろしい思いをしたブランカは孤児院に身を寄せることにした。
ブランカは孤児院の前でピーターと別れた。そこで安心して暮らせるはずだった。しかしブランカの気持ちは晴れなかった。ピーターがこの先独りで不自由しないか気がかりだった。思いつめたブランカは孤児院を抜け出し、夜通し走っていつもの公園に向かった。そしてブランカが見た光景は…。
ブランカは母親さえも金があれば買えると信じていました。拝金主義ではなく、それだけ母親という存在を渇望していたのでしょう。乾き切った少女の心に潤いを与えたのはピーターでした。彼も盲目で路上でギターを演奏して糊口をしのぐ毎日で、決してあしながおじさんのような救世主ではありませんでした。それでもブランカの人生を真っ当な場所に戻すきっかけを与えたわけです。本作のエッセンスをギュッと凝縮すると「人生の終着点に近づく老人が、未来ある少女の人生を救った。それも口やかましく説教したわけではない。」といったところです。若者など、正しい場所に置いてやれば、後は自分自身で悩み考え、やがて進むべき道を見出すものなのだなあと思いました。先天的な性格、性向も確かに影響すると思いますが、やはり置かれた環境の影響は大きいものです。これは、大人になってからも実は同じですね。「お金持ちと付き合うと自分もお金持ちになる」という俗説がありますが、今になるとあれは結構当を得ているなと思います。もちろん私の場合、お金持ちと付き合いがなかったので、今もお金はありませんが。残念。
ロードムービーに分類する向きもあるようですが、個人的には違和感があります。”旅”が重要な要素ではないからです。とは言え、ジャンルなど音楽と同じでもともと曖昧なものだからだからどうでもよいことですね。元々このブログでもジャンル別でカテゴリ分けしようと思ったのですが、一般に「ドラマ」と呼ばれるカテゴリをさらに細分化することができずラストで分類してみました。このやり方が正解かどうかは自分自身まだわかりません。
くどくないラストも、この作品によくマッチしていると思います。私はこのラストは正解だと思いました。日本人監督なのにイタリア制作というなかなか複雑な本作ですが、是非一度ご覧ください。